切構造改革で失われた国民の青春
都会は消耗する場所かもしれない
東京女子図鑑というドラマがある。 水川あさみさんが演じる主人公の綾は「人にうらやましがられる女になりたい」と秋田から都心の華やかさにあこがれて、就職を機に上京をする。周りの交友関係が派手になるにつれて、彼女が住む場所や身につけていくものも次第に派手になっていくのだが(リボ払いでの購入は当たり前)、どこまでいっても満足するという「幸せ」が得られない。
20代までは恋人もいて、外資系企業に転職して、誰もが憧れる「すごい女」になるのだが、30歳を過ぎたころに共に独身を押下していた友人たちはいつのまにか家族をもち、子どもの世話にまみれながらも「幸せそう」なのだ。
そこにどうしようもない距離感を覚えていく綾も結婚相談所で知り合った男性と結婚をし、豊洲のマンションに住み始める。
しかし子どもは授からないし、夫は浮気をし、浮気相手との間に子どもができるという皮肉。
ドラマはこれから先も続くのだが、私はこのドラマを見ていて目からウロコが出てくる気持ちになっている。
確かにSNSで流れてくる話題というのは、東京女子図鑑の言葉を借りれば「人のうらやましがられる」部分ばかりが出てくるのだが、そのような話題を流す人に限って見てくればかりで生活に余裕がなかったり、自分への金遣いはおおらかな割に他人にはケチだったりする。
しかし「都会」へのあこがれというのは単に「見栄っ張り」だけで片付けられるような問題でもないと思うのだ。
» 結婚をあきらめかけていた女の中年男性との出会い(別サイト)
都会は地方出身者の夢が詰まっていた
都市に人が集まる動機の一つには、都会で働けば田舎よりも高い収入を得られるという点がある。東京をはじめとする都会は、実は田舎者のサラダボウルではないかと思う。
もちろん東京で生まれ東京で育ってきたという人もいるだろうが、その人の親、もしくはその前の代は東京が出身でないという人も多いはずだ。
田舎から都会に移り住む人の中には田舎の人間関係が煩わしいという人がいる。
しかし人の多さでいえば都会のほうが、地方からたくさんの人がくるため田舎よりもよっぽど人が多い。
田舎の人間関係は例えば集落に長(おさ)のような人がいて、その人を中心とした序列があり、それを無視すれば村八分にされるということがある。
そのような社会が田舎において形成されるのは農業をやっているのと深いかかわりがあるからだ。
特に田んぼなどをやっていると、自分の家だけよければいいというわけにはいかない。
人の「輪」を崩そうとする流れには非常に厳しいのがムラ社会であるし、そのような内向的な社会に息苦しさを覚えて外に出たがるのは当然である。
都会では農業をやるという機会はほぼない。しかし都会の「会社」もムラ社会的要素は往々に見られる。
ムラ社会の相互扶助の部分はあまり輸出されることなく、監視的な部分ばかりが目立つようになる。
まだ日本社会全体が景気のいい時代であれば会社で人を育てていくという部分もあったかもしれないが、バブルがはじけ、氷河期を経て労働者の東京一極集中へと社会構造が変化していった。
「聖域」なき構造改革で本来社会に必要とするものまで「無駄」と切り捨ててきた社会は疲弊し、「人を育てる」という余裕は地方にはほぼない状態になってしまった。
自己責任という言葉は非常に便利な言葉
「貧困」というのは自己責任であるという声を少なからず耳にする。浪費癖があったから貧乏になってしまったという。
確かに東京女子図鑑に出てくる人も中にはいるかもしれないが、そういう人たちがこの国の「貧困」問題を形成しているわけではない。
この国は明らかに貧しくなっている。よく笑い話でクレヨンしんちゃんの野原ひろしは冴えないサラリーマンだがバブル期のサラリーマンなので年収は600万以上あるので、今のサラリーマンに比べると高給取りであると。
貧困とセットのようにして出てくる自己責任という言葉は、本来根が深く、解決には非常に時間がかかる問題を一言で片づけてしまえるとても「便利」な言葉でもあり、同時にあっさりと人を切り捨てる言葉でもあるということを前提にしておく必要がある。
「自己責任」という言葉を一度発してしまえばそれ以上の議論の進みようがない。
そして議論をしようにも、この国はそもそも「輪」を崩すというのを非常に嫌う空気がある。
この議論を避けるという空気も「自己責任」という言葉と親和性が高いのではないかと思う。
貧困に劇的に効く薬はないが…
社会全体で閉塞感に満ちているときほど、わかりやすい答えに飛びつきたくなるというのはよく識者からも言われているし、歴史が証明をしてくれている。「自己責任」という言葉もわかりやすいから、これほどまでに蔓延するのではないかと思う。
貧困に対する劇的な対応策というのは今のところないが、少なくともこれまで私たちが「面倒である」と切り捨ててきたものを少しずつ見直す必要があるのではないかと思う。
SNSなど簡単に人とつながれるツールはあるが、画面上の人付き合いに執心するのではなく自分の近くにいる家族、友人を大切にするというのも貧困への直接的な薬にはならないかもしれないが、問題を解決する際の糸口にはなるのではないかと思う。
新型コロナウイルスパンデミックが国内外に与えた格差問題とこれまでの常識・新システムへの展望
今年は、本来ならば、東京五輪が無事に決行されていれば、都市部はいうまでもなく、世界各国のオリンピアン・パラリンピアンを迎え入れ、バリアフリーなどの社会インフラも整備され、国民たちの関心を集めていたということは想像に苦しまないだろう。しかし、この春、クルーズ船・武漢により始まった新型コロナウイルス感染拡大は、発生源付近の地域にとどまらず、五輪を期待したした人々の高まる希望も裏切られ、企業活動・イベント自粛など、文化的・経済活動のライフラインをストップさせ、「ステイホーム」へと追い込んだ。
また、アベノマスク・go to travelをはじめ、政府の利権まみれの政策に国民は苦しみ、現状との乖離を感じた政治と国民との間に軋轢を生んでいる。
地震や台風などのインフラ整備の問題はともかく、このような事態は、我が国にとっては、戦時中のスペイン風邪以来であろう。
まさしく想定外の事態で、コロナウイルスは、風俗系飲食店だけでなく、一般の飲食店、医療機関・福祉施設などのクラスター感染といった形で猛威を振るったにもかかわらず、「補償とロックダウン」が適用されないため、失業者の多発・企業や店舗を守る仕組みも不十分であるということが明るみにもなった。
企業活動では、従来では厳しい競争や人間関係に加え、「満員電車・通勤・長時間労働・残業」というものが、当たり前のパターンであったが、この際、「テレワーク」という新たな選択肢が注目されるようにもなった。
私も現在テレワーカーの在宅事務をしている。
コロナウイルスによって、政治・企業システムを構成する社会構造・生産活動の前提にあるものが、「円錐型」であるということも、気づかされたものだ。
円錐型が前提の社会は、一方の層の文言では、富を享受できるのかもしれないが、いざという時はとてももろいものであり、経済格差のしわ寄せは、障害・難病患者などにもことごとく向けられる。
「差別のない共生社会」というきれいな建前だけはうたい文句になっているが、実質、生産活動の前提にあるものは、依然、学歴、社会的地位(肩書)や東京一極集中など、ハード面の差別がものをいう。
今回のパンデミックは、当たり前に格差がはびこっている国民への警鐘であるのではないかと思う。
ときには大胆にハードの見直しと構造改革を行うことも、「生活の質」をあげるうえで不可欠ではないか。
これからの社会の展望として、期待したいものは、必要に応じて、セーフテイネットを講じ、柔軟性を持って社会構造を時には全面的に見直す視点であると思われる。
それが結果として、多様性につながるシステム改革ではないか。
民間経営者としてはテレワークの需要にも期待をしたいが、現実にはデフレを促進させるだけである。