貧乏人は自分ができないことに耐えることだけが美徳だ

貧乏をするとこうなる

貧乏人の唯一、できることと言えば、自分がしたいと思っていることを言いがかりをつけて自分自身を納得させることだけだ。
それを美徳として扱うことである。
豪遊も夜遊びも金を使うもの全ては、金持ちの特権であること。
甘いものを食うのではなく、健康的な食事をする。
いいサービスを受けることでストレスを予め取り除くというのが
金銭によってできなくなる。



貧困ではできないこと

金持ちのおっさんは、おっさんであってもお金という権限を使って美人を買うことができる。
美人は美人であるがゆえに誰よりも金がかかるからである。
肌も髪もスタイルも、男がおおよそ見てもいないネイルに金をかけてブランドもので身を包むことで自己の権威を増幅させようと試みるからである。
それが、承認欲求がなせる術だからだ。

貧困であればあるほど権威に憧れる

貧困な人は、それゆえに権威に憧れる。
ブランドものに憧れる。
それは、ブランドものはお金持ちが持っているものだという価値観からくるものである。
実際にはきれいな女優やモデルは宣伝のためにブランド側からバッグだのなんだのを提供されているのだが、それゆえに庶民は権威に感じるのである。

貧乏人ほど心がせまい

貧乏人は住んでいる家も部屋も狭ければ、心も器も狭い。
それは、周りの貧乏人もケチであるからである。
それは心とお財布の余裕のなさからくるものである。
そして、それは残念なことに人から人へと伝染し、心を虫歯む。



貧乏相対性理論

今から二十年以上も前、私がまだ学生だった頃。
周りの学生と同様に私も貧乏学生でアルバイトに明け暮れる毎日だった。
アルバイトが無い間は食べる物にも困り、冷凍庫で作った氷にマヨネーズをかけて食べたこともある。

決して楽しい思い出ではない。
しかし、あの頃の自分があったからこそ今の自分があると感じている。

学生時分に貧乏だったのは明確理由があった。
「働いていない時期」だけ貧乏だったのである。
アルバイトを行って定期的な収入があったときは決して貧乏ではなく、居酒屋で仲間と楽しいお酒を飲んだりも普通に出来たものだ。
更に遡って幼少時代。
東京の郊外で借家暮らしだった私の周りは、同じような収入の人々で溢れていた。
毎日の食事は三食しっかり食べられてはいたものの、豪勢なおかず等はなく、やたらしょっぱい塩鮭を一切れつまんでお米を食べるという食事風景だったのを覚えている。
それでも、「自分の家は貧乏で」という自覚はあまりなかった。
なぜかといえば、周りが皆そんな状態だったからである。
唯一感じる時といえば、たまにいる上流家庭のクラスメートの家にお誕生会で呼ばれた時ぐらいであった。
つまり、子供であった私にとって「貧乏」とは決して主体的に感じるものではなく、周りとの相対性によって感じるものであったと思われる。
あれから時代は下り、今自分が人の親になって考える。
学生時代の貧乏とは違い、あの頃私の親は両親とも働いていた。
働いていたにも関わらず、「貧乏」だったのだ。
働く人がそれでも「貧乏」を感じてしまう日本。
物が溢れ裕福になったとは言え、その本質は四十数年経った今でも実は何も変わっていないのではないか?と思われる。

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